ロシア旅行(57)

※ロシア旅行(57)<六日目>-2004.10.1-

エルミタージュ美術館3Fのモネの間から、隣の「ゴッホ
の間」へ移動する。

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)

 後期印象派を代表するオランダ人画家。 画廊の見
 習いや、伝道師の職につくが長続きせず、1880年
 頃から絵画の勉強を始める。 1886年実弟のテオ
 を頼ってパリへ行き、最先端の前衛芸術であった印
 象派の画家や作品を知る。 

 また、当時の流行の一つであった浮世絵にも触れ、
 日本を光の国と考えていたゴッホは1888年、数十
 人の画家を誘い、日差しの強い南仏のアルルに向
 かう。 しかし、アルルには結局ゴーガンしか訪れず、
 2ヶ月ほど2人で共同生活を送るが、考え方の違い
 からゴーガンはパリへ戻り、ゴッホは自分の耳を切
 り落とす。 以降、サン・レミの精神病院に入院し、多
 くの作品を描くが、パリ郊外のオワーズに転じ、その
 71日後の1890年7月29日に死去した。 37歳の
 若さであった。

 『ライラックの木』(1889年)・ゴッホ

  ゴッホ晩年の作。 ゴッホの絵も、印象派の成果に
  大きな影響を受けている。 しかし、彼の絵の色彩
  は現実より、もっと鮮やかである。 ゴッホにとって、
  色彩は自分自身の感覚や感情の表現であった。
  前年の作の『アルルの闘技場』(1888年)にも、
  同じことが言える。

さて、ゴッホの間を見終わったところで、ガイドさんが、
後40分しか無いので、これから自由行動とし、1Fの
クローク前に17:50集合という事になった。 自由見
学は有り難いが、新エルミタージュ最大の目玉である
『ダンス』・マティスはまだ見ていない。 慌てて、ガイド
さんに「マティスの間」の場所を聞く。 現在位置から、
可成り奥の方になるらしい。

兎に角、マティスの間へと急ぐ。 途中出会う日本人
に場所を聞きながら、やっと待望のマティスの絵との
ご対面である。

部屋に入って驚いた。 『ダンス』が、壁面一杯を埋め
尽くす感じである。 こんなに巨大な絵であるとは、想
像もしていなかった。 美術誌で何回も見たことがある
が、精々100号位を考えていた。 やはり、素晴らしい
絵画は現物を見るに限ると痛感した。

アンリ・マティス(1869~1954)

 北フランスに生まれる。 法律家を志し、法律事務所
 の書記として働くが、1991年画家を志してパリに出、
 ギュスターヴ・モロー等の下で美術を学んだ。

 新印象主義の影響を受けながら、強烈な色彩を併置
 するフォーヴ(野獣派)のスタイルを生み出す。ニース
 に活動拠点を移すと、くつろいだ雰囲気の手法で作品
 を制作、デッサンと色彩の融合を試みるようになる。そ
 して、光と空間の単純化と純粋化を追求した結果、「色
 彩でデッサン」する切り紙絵の世界に到る。

 『ダンス』(1911年)

  余計なものは取り去られ、流れるような線・形、大胆
  な色彩が特徴である。

  モスクワの実業家であった、セルゲイ・シチューキン
  は、1910年頃から、まだ、当時は若くて評価も確立
  していなかったマティスの絵画の魅力に惹かれ、自邸
  に彼の絵専用の特別室をつくり、1911年にマティス
  をモスクワに招いている。

  特別室を飾るために注文された大作『ダンス』は、マテ
  ィスのみならず、20世紀絵画の最高傑作の一つと言
  われ、エルミタージュが世界に誇る宝ともいえる作品
  である。

エルミタージュ美術館には、ダンスを含め、マティスの作
品が37点も展示されているが、その内数点を紹介しよう。

『赤い部屋』(1908年)、『青いテーブルクロスのある静
物』(1909年)、『家族の肖像』(1911年)。

ゴッホの間・エルミタージュ美術館3F

『アルルの闘技場』(1888年)・ゴッホ

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『ライラックの木』(1889年)・ゴッホ

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エルミタージュ美術館3Fより2Fを見下ろす

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マティスの間・エルミタージュ美術館3F

『ダンス』(1919年)・マティス

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追加画像は下記をクリックして下さい

『赤い部屋』・マティスへジャンプ





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